戦争の体験(その3 戦後の生活)(2007.1 2009.1)
食糧難 「不衛生」より「もったいない」 おかゆにサツマイモの葉やつる 田んぼに沢山のタニシ 五右衛門風呂 井戸水を濾す 煙突掃除 おにぎり 洗濯板 紙芝居 寄生虫 しもやけ(凍傷)
戦後(昭和20年〜25年頃)の食糧難に関しては、現在では経験のできないことをいろいろと体験させてくれた。
弁当箱(現在なら「ほか弁」か)を開けた時、先ず蓋に付いたご飯粒を一粒づつ箸で摘まんで食べるなどということは、私を含めて食料難の時に育った年代層の人達についた習慣である。 食事中にご飯粒を床にこぼすと、「1粒のお米でも無駄にすると目が潰れる」、と親に叱られた。 食事中、畳にこぼしたご飯粒(大部分の家庭は和室の畳の上にちゃぶ台をおいて食事をしていた)は、必ず拾って食べていた。 「不衛生」より「もったいない」の精神が優先していた。
お米は配給制で、一人当たり○○合(その当時はkgではなく尺貫法の合で計っていた)と政府が決めて、定められた米屋で買うことになっていた。 勿論十分な量ではないので、麦ご飯にしたり、薄いおかゆにしたり、時には薄いおかゆにサツマイモの葉やつるを入れて増量して食べていた。 それでも稀にはヤミで入手した米で白いご飯が食べられることもあった。 そんな時、一升瓶に米を入れてハタキ(掃除機はないので、障子や箪笥の上の埃を叩いて落とす道具 竹の柄の先に不要になった布を裂いて縛り付けて作っていた)の柄で何度も何度もついて精米していた。
田植えは総て手植えで行われ、針金に約30センチ間隔にしるしを付け、これを田んぼの端から端に張り渡して、しるし毎に稲の苗を植えていた。 脱穀は突起が沢山付いた円筒を足踏み式で回転させる簡易な機器(ターランターランと音を発てて回る)に稲穂を当ててもみを落としていた。 農薬は使っていないので田んぼには沢山のタニシがいた(カタツムリに似た貝)。 これを拾い集めて中の身を取り出して食べる。 これは歯ごたえがあって美味しく、何十年も後になってフランスで食べたエスカルゴに似た味であった。
私の家では(大部分の家庭がそうであったが)まだ上水道がなく、風呂の水は家のすぐ裏側を流れていた川に階段状に置かれた石の上に降りて、バケツで汲んできて使っていた。
五右衛門風呂と称する鉄製の風呂釜で薪を燃やしてお湯を沸かしていた。 薪と言っても現在の店で売っているきちんと切り揃えられた木ではなく、拾ってきた木切れや、古いみかん箱、歯が磨り減って履けなくなった下駄(まだ多くの人が木製の下駄を履いていた)、ごみなど、燃えるものなら何でも燃やしていた。 勿論昨今のように毎日風呂を使うことはない。 週に2,3回も沸かせば上々であった。
家には手押しポンプ式の井戸があり、その傍らに井戸水を濾すための、直径50センチ高さ80センチほどの木の樽が置いてあった。 樽には上から順に、小石、砂、しゅろ、木炭が層状に敷き詰めてあった。樽は高さ30センチほどの台上に置いて、手押しポンプの直ぐ横に据えられていた。ポンプで汲み上げた水をこの樽の上に流し込むと、水は各層を通って濾過され、最下層に付けられた小さな口からきれいになって出てくる仕掛けになっていた。
現在の水道水のようにカルキやかび臭い匂いはまったくなく、本当に美味しい自然の水が飲めた。 食器洗いや洗面はポンプで汲み上げた直接の水を使い、飲み水のみ濾過した水を使っていた。 風呂、洗濯、時には洗面も川の水をそのまま使用していた。
都市ガスは勿論のことプロパンガスもなかったので、かまど(テレビの時代劇に出てくる2つ口のかまど)にお釜をおいて、薪を燃やしてご飯を炊いていた。従って、各家にはかまどに繋がる煙突が1本づつ立っていた。
煙突は直径10センチ程の丸い筒で、かまどの後ろから立ち上がり、台所の天井を横に伸びて、外壁を貫通して家の外に立ち上がっていた。 煙突には煤が付くので、年に一度は竹を縦に細く割って作った煙突掃除用具を使って、煙突掃除をしていた。
七輪(関西では「かんてき」と呼ぶ)に炭火を起こして(関西では「炭をいこす」と言う)、その上でおかずを煮たり、魚を焼いたりしていた。 今から思えば随分不便なようだが、どこの家庭でも母親がこうして食事を作ってくれていた。 釜で炊くご飯は美味しかったし、少し焦げができるので、母親が手に少し塩を付けて握ってくれる「おにぎり」を、何にも増しておいしいと思って食べた思い出が本当に懐かしい。昨今、コンビニで売っている「おむすび」とは別物の味である。
部屋の照明は一部屋には天井から吊るされた白熱電球が1つあるだけだし、コンセントは各部屋にはなかったので、白熱電球のソケットに2またのソケットを継ぎ足して使っていた(松下幸之助さんはこの2またソケットを発明して多いに儲けたと云われている)。 こたつ(素焼きの陶器製で30〜40センチ角程度 灰と炭を入れる)の中に炭の代わりに白熱電球を点け、この2またソケットに差し込んで使っていたこともあった。 夜中に部屋は真っ暗でも布団の中は赤々と電灯がついていた。
停電もよくあったが、殆どの家庭は電灯のみで、現在の家庭のように家電製品が使われていなかったので、昼間の停電は家庭では全く影響が少なく、夜の停電はローソクを使うか、さっさと寝てしまうばかりで、それほど不便を感じることもなかった。
冷蔵庫は一部の家にはあったが電気式ではなく木製の箱で、扉が2つあり、上の扉を開けて氷を入れ、下の扉を開けて食料や飲み物を入れていた。毎日氷屋さんが1貫目(3.75kg)の氷を配達してくれていた。 洗濯機はなく、盥(タライ)と洗濯板(長さ約60cm、巾約30cm、厚さ約1cmの木製の板で、表面に凹凸が付けてあり、この上で洗濯物をゴシゴシと擦る)を使っていた。 扇風機はあったが、現在のようにカラフルではなく黒一色であった。勿論、扇風機よりうちわが多用されていた。
テレビは勿論なかったがラジオはかなり普及していた。未だ民間放送はなく、NHK第一放送と第二放送のみであった。並4式と称されるもので、30cm立方の木製の箱で、正面には目の粗い布が張られており、この奥にあるスピーカーから音が出てくる構造になっていた。トランジスターやICはないので、代わりに真空管が4本入っていた。
昭和天皇による終戦宣言、いわゆる「玉音放送」を聴いたのもこのラジオである。昭和20年の時点ではこんなラジオさえ持っている家庭は少数で、おそらく全家庭の数%にしかなかったのではないかと思う。
テレビはないし、ゲーム機も勿論ない。 それでも子供にとって、遊びに不足することはなかった。 子供の楽しみの一つに紙芝居があった。 紙芝居屋のおっさんが自転車に紙芝居のセットを積んで回ってくる。 先ず、拍子木を叩いて近所を回り、子供たちを呼び集める。 十数人の子供が集まると酢昆布や飴を売る。 お金を持っている子供はそれを買うが、持っていない子供はタダ見(無料)である。 お金がなくていつもタダ見しているとおっさんに追い払われて見せてもらえない。 紙芝居は縦30センチ、横40センチ程の厚紙に絵が書かれており、これを何枚も使って絵物語になっていた。 おっさんが解説をしながら絵を1枚1枚めくっていくのを、今の子供がテレビで漫画を見るような感じで見入っていた。
缶けり、べったん、トンボ取り、小川での魚とり、石蹴り、こま回し(独楽を手の平に乗せたり、ひもの上を伝わらせる)、道路の上で釘刺し(今では土の地面がなくなってしまった)、などなど、遊びごとには全く不自由はしなかった。
夏になるとアイスキャンデー売りが自転車に氷式の小型冷蔵庫を積んで回って来た。 真っ黒に日焼けしたおっさんが「ひやこーてうまい、 おいしさっせー よー(冷たくて美味しい)」と大声で叫ぶので、「よーのおっさん」(よーは掛け声で意味はなし)と呼んでいた。
化学肥料がないため、野菜の肥料には人糞が使用されていた。我が家でも月に何度か近所のお百姓さんが屎尿の汲み取りに来てくれていた(バキュームカーは無いので、大き目の柄杓で汲み、桶に入れて人が運ぶ)。 勿論、水洗式ではなくドッスン便所である。各家庭から汲み取った屎尿は田んぼの片隅に設けられた2,3メートル角で深さが2メートル弱の溜めます(土壷と称していた)に溜められ、これを少し水で薄めて畑に撒いていた。
衛生状態が悪い上に消毒も不十分なため、殆んど日本人全員がお腹に寄生虫を持っていた。 そのため小学生であった私達も、全員が時々マクニンと称する虫下し薬を飲まされていた。
当時はどう言うわけか鼻から2本の青鼻を垂らしていた子供達が沢山いた。最近は全く洟垂れ小僧にお目にかかれないのはどう言うわけだろうか。
また、冬になると手や足の指がしもやけ(凍傷)に罹る子供が多くいた。私も手の指が毎年凍傷でやられ、特に小指が酷くなり、膿んで皮膚が破けくぼみができるほどになり、数十年経った今でもその傷跡が両手の小指の付け根に残っている。この原因ははっきりしていて、粗食から来る栄養不足、粗末な衣類と暖房具、である。
今や「しもやけ」など死語になってしまった。